HOME > 手紙を読む > アリフ・ラフマン

29-Oct-2016 kepada Jepang dari Arief

「Tsunami─津波、日曜日の朝の物語」
─日本の友人のためのショートストーリー

 

よく晴れた日曜日の朝、激しい地震がアチェの大地を揺るがした。なんの備えも、知識もなく、何が起きているのか分からぬままに、私たちは何十万人ものアチェの人たちとともに、風に吹かれた枯葉のように翻弄された。そしてあとには、家族、財産、生命さえ失うという悲しい物語が残された。しかし、マグニチュード8.9の巨大地震とそれに続く津波は、長年にわたり武力闘争*が続いていたアチェ社会に、新たな歴史をもたらしたのである。

 

アリフ・ラフマン、バンダアチェ
www.fokusaceh.com のジャーナリスト

12年前の日曜日の朝、私の人生の物語は変わりました。
苦労して建てた新築の家を持つ幸せは、わずか49日しかもちませんでした。新しい家での妻(サムシダール)と2人の子供たちの幸せも、長くは続きませんでした。2004年12月26日、大地が鳴動し海水が大地に押し寄せてきたそのとき、一瞬にしてなくなってしまったのです。それは末っ子のアディットが最初の誕生日を迎える12月31日の5日前のことでした。

 

地震は、アチェに住む私たちにとって、決して珍しいことではありませんでした。たしかにこの地域は、平均してマグニチュード7以下の地震の多発地帯でした。ご存じの通り、スマトラ島は環太平洋火山帯に位置し、2つのプレート、すなわちユーラシアプレートとインド・オーストラリアプレートの上にあります。またスマトラ島には、ランプン州からアンダマン諸島まで伸びるスマンコ断層(スマトラ断層)も走っています。

 

しかし、この2つのプレートの衝突が恐ろしい巨大地震を引き起こし、海水が内陸深くまで押し寄せてくることになろうとは…。神に誓って、私たちは思いもしませんでした。日本のみなさんが「Tsunami─津波」と呼んでいるものを、私たちはほとんど知らなかったからです。アチェの人々にとって、津波は、身近な言葉でも出来事でもなかったのです。

 

それゆえに、その日曜日の朝、私の携帯電話が8時5分(インドネシア西部時間)をさしたときに、何十万人もの命が失われたことも、不思議ではなかったのでしょう。私たちは大地震がきたときにどう行動すべきか、全く知らなかったのですから。

 

私たち家族も例外ではありませんでした。その恐ろしい地震が襲ってきたとき、私はあわてて家の外へ飛び出し、建物から少し離れた庭に座りこみ、建ててからまだ49日しか経っていないわが家を見回しているだけでした。どこかにひび割れが入った箇所はないかと調べるためだけに。

 

すると突然、大勢の隣人たちが、恐怖の叫び声をあげながら、私たちのほうに走ってきたのです。あたりはパニック状態。いったい何が起きているのか分からないまま、私たち家族も駆け出しました。ただただ人々が向かう方向へと逃げまどって。そして、その直後……。
***

怒り

 

昼、11時45分。もしくは12時5分。
海岸から500メートルほどのところにあった私の村で、突然、巨大な波に巻きこまれ、叩きつけられ、流された私は、3時間近くも漂流した末、やっと大波にも倒れなかった1本の木に身を寄せることができました。そして、休息できそうな枝に登り、1時間ほど横たわりました。そうしていると、津波から生き残った人たちが、胸の高さまである洪水の中を渡りはじめ、一緒に陸地までいこうと声をかけてくれたのです。

 

恐怖、悲しみ、怒り、苛立ち、失望が入り混じり、やりきれない気持ちでした。私は一人ぽっちになっていたのです。翌日、唯一妻と再会できるまで…。もはや涙は出ず、空腹も、喉の渇きさえも感じませんでした。悲しみはふくれ上がり、憤りはつのるばかり。津波とは何かを学んでいなかった自分自身の愚かさに腹が立ち、マグニチュード8.9の地震への対策をたてていなかったことを悔みました。

 

しかも、財産、家族、生命まで失われたというのに、誰かにその罪を着せて、責めることもできないなんて…。私は、何か月も喪に服し、自分自身を責め続けました。心の準備もないまま突然大切なものを失った悲しみに、打ちひしがれました。そして、何カ月も闇とトラウマの中に沈み込んでしまい、怒りがおさまることはありませんでした。情緒不安定のまま。それは、最後に私がひとつの気づきに到達するまで続いたのです。「この自分はいったい何者なんだ? 自分にはどんな力があるというのか? 創造主が望まれるとき、誰がそれを止めることができるのか?」と。
***

トラウマからの癒し

 

私は病院で治療を受けるため、3カ月間、生まれ故郷である、北スマトラ州のメダン市に滞在しました。2カ月は常住し、1カ月は通院のために行ったり来たり。しかしその間、まさに私は精神的“テロ”を経験しました。恐ろしい津波の出来事が脳裡から離れず、トラウマに陥ってしまったのです。フラッシュバック。そう、事あるたびに、いつも、その辛い記憶がよみがえってきました。自分の意志ではなく、まわりの状況や環境のせいで、繰り返し繰り返し、その出来事を思い出さなくてはならなかったから…。トラウマから逃れることができなかったのです。

 

およそ1年の間は、このように、さまざまなストレスに見舞われました。地震が起きると、身体の力が抜けてしまい立っていられないほどに。寝ているときでも、ベッドが揺れるだけでビクッとしてすぐ目を覚ましてしまいました。とにかく遠くまで逃げなくては──。その思いに駆られ、服を着る余裕もないまま家から逃げ出したときもありました。そんなとき、海岸からできるだけ遠くへ逃げなくては、という思いで頭のなかはいっぱいになっていたのです。

 

メダンでの私は、「アチェの津波物語」のよき語り部となっていました。私が生まれた街、メダンにいた129,600分の間、私は無駄な時間などないほど、津波の話を語り続けていたのです。私と会う人会う人、誰もが、いつも、同じ質問を投げかけてきたから。「津波のとき、どんな風だったの? そのときあなたはどこにいたの? なぜ子供たちは行方不明になったの?…」。

 

「アチェに帰らなけれはだめになる」。私はすぐに決断しました。妻は手術あとの傷の治療のため、まだ通院していましたが、「その傷が癒えたら戻ろう!」と、きっぱりと妻に言いました。

 

ところが、私の家族は、当初、そんな私の思いに反対しました。妻の家族や親戚がアチェに住んでいるのにもかかわらず、私たちがアチェに戻ることを固く禁じたのです。また私の会社も、私がアチェに戻らないようにと、メダンのオフィスに“机”を用意さえしてくれました。しかし、「第二の故郷」であるアチェに対する愛と、いつも同じ話を繰り返すことで襲われるトラウマから逃れたい一心で、周りの反対や心配を押し切り、私たちは前に進んでいったのです。

 

「もしメダンにいたら、僕はいつまでたっても、このトラウマから解放されることができないよ。人に会うたびに同じ質問を受け、答えはいつも同じで、あの悲しい話を、繰り返し繰り返し、話すことになるのだから。それじゃ、いつ僕はこのトラウマの記憶を消すことができるというの? トラウマを克服する最善の場所は、僕にとっては、そう、アチェに戻ることなんだよ。なぜって? アチェだけが、僕も妻も、津波の話を繰り返し聞かれることも、答える必要もない場所だから。アチェにいる人はみんな、同じ経験をしているから」と、周りの人たちに思いを伝えて。

2005年3月末。こうして私と妻は、新たな生活を始めるために、バンダアチェに帰りました。
***

悟りへ

 

バンダアチェでの再出発は、津波に流された私たちの家の跡地を訪れることから始めました。そこに佇むと、妻だけでなく、私までも、涙をこらえることができませんでした。いまだ遺体が発見されていない、2人の愛し子の姿が思い浮かび、また従兄弟たちも思い出されて…。それからは、津波犠牲者の多くが眠る、アチェ・ブサール県シロン村にある、ランバロ集団埋葬地へ足を運び、お参りするようになりました。でも、いつまでも泣いているわけにはいきません。これからもずっと生きていかなければならないのだから。

 

私は、日々、ジャーナリストとしての仕事をこなしながら、まだ見つからない2人のわが子と従兄弟たちを探して、いくつもの避難キャンプをゲリラ的に訪ねました。2人の子供の色あせたモノクロ写真を頼りに、津波のとき人に貸していて無事だった1978年製のベスパ(バイク)に乗って、バンダアチェ市とアチェ・ブサール県を探し回ったのです。津波後にアチェで活動しているNGOの各事務所も訪ねて回りました。

 

何カ月も何カ月も、私は探し続けました。


そして長い月日が流れ、ようやく私は、ひとつの悟りにたどり着いたのです。すべての出来事が、創造主である、全能の神の思し召しなのだと。ならば、すべてを神のもとへお返ししよう。天にお任せしよう。この悲惨な出来事の背後にも、偉大なる創造主のご計画と深い意味があるのだと、やっと私は確信することができたのです。こうして私は、すべてを神にゆだねました。神は眠ることも、まどろむこともないのだから。

 

このひとつの気づきによって、私と妻は、ようやく気持ちが落ち着きました。私たちはもう喪失感に襲わることもなくなりました。悲しむ必要も、人生を嘆く必要も、もうないのです。なぜなら、すべてが至高なる神のお計らいであり、私たちはそのご意向にそって生きていけばいいのだから。

 

4年後の2008年4月19日、可愛い娘が生まれ、私たちはティジャン・シイファ・アフィカと名づけました。そして、私たちが悲しみのなかにあったり、失った2人の子供を思い出しているときには、悲しみをやわらげる癒し(シイファ)となり、また愛らしいわが家の女王さま(ティジャン)となりました。

 

日本のみなさんも、どうか怒ったり自分を責めたりしないで! すべては大いなる神のご計画のなかにあるのだから。そして、神は眠ることも、まどろむこともなく、私たちを見守ってくださっているのだから。

 

バンダアチェにて 2016年8月5日〜10月5日
アリフ・ラフマン ─ サムシダール

*アチェの武力闘争:インドネシアのアチェでは、1976年以来、自由アチェ運動(GAM)による民族独立運動とそれに対するインドネシア政府による弾圧が起こり、長年にわたる武力闘争が続いていました。しかし、2004年12月の津波襲撃により、甚大な被害を受けたアチェは、独立派と政府との間で和平への動きが進展。2005年8月には和平協定が締結され、アチェにようやく平和の日々が訪れました。

 

Tsunami, Sebuah Kisah pada Ahad Pagi
*Catatan kecil buat saudaraku di Jepang

 

Gempa dahsyat mengguncang Aceh, pada Ahad pagi yang cerah itu. Tanpa persiapan, tak punya pengetahuan, bahkan tak faham persoalan, kami terhempas, bersama ratusan ribu warga Aceh lainnya, bak daun kering ditiup angin. Lalu menyisakan kisah pilu kehilangan keluarga, harta, hingga nyawa. Guncangan 8,9 SR itu, diikuti tsunami yang menjadi sejarah baru kemanusiaan Aceh, setelah konflik bersenjata yang panjang.

Arief Rahman, Banda Aceh
Jurnalis di www.fokusaceh.com

 

Ahad pagi 12 tahun silam, cerita hidupku berubah. Kebahagiaan memiliki rumah baru yang kubangun dengan susah payah, hanya bertahan 49 (empatpuluh sembilan) hari. Kebahagiaan istriku (Samsidar) dan sepasang anak kami dengan rumah baru mereka, tak bertahan lama. Hilang ketika bumi berguncang dan laut menumpahkan airnya ke daratan, pada 26 Desember 2004, lima hari sebelum si bungsu, Adit, berulang tahun yang pertama, 31 Desember.

 

Gempa, bukan barang baru bagi kami di Aceh. Sebelumnya, daerah ini memang menjadi langganan gempa, dengan kekuatan yang bervariasi, namun rata-rata di bawah 7 SR. Maklum saja, Pulau Sumatera berada di atas cincin api dan dua lempeng bumi, Eurasia dan Indo-Australia. Sumatera juga berada di Sesar Semangko yang memanjang dari Lampung hingga Andaman.

 

Tapi sungguh demi Allah, kami tak tahu jika lempeng bumi ini bertumbukan dapat mengakibatkan gempa maha dahsyat dan mampu memuntahkan air laut hingga jauh ke daratan. Kalian menyebutnya tsunami, kata yang bagi kami sangat asing, dan bukan kata atau peristiwa yang familiar.

 

Maka tak heran, jika Ahad pagi itu, baru pukul 08.05 Wib di jam Hpku, ratusan ribu nyawa melayang, karena memang kami tak tahu apa yang harus kami lakukan ketika gempa besar mengguncang.

 

Pun demikian dengan aku dan keluargaku. Gempa dahsyat itu, hanya kurespon dengan keluar rumah, duduk di halaman yang jauh dari bangunan, sambil berkeliling memantau bangunan rumahku yang masih berusia 49 hari. Sekedar mencari tahu, apakah ada bagian yang retak.

 

Lalu ratusan orang tetangga berlarian ke arah kami. Berteriak ketakutan. Panik. Tak tahu apa yang terjadi, aku dan keluargaku pun ikut melakukan hal yang sama, berlari mengikuti arah yang dituju orang-orang, sebelum akhirnya...
***

 

Marah

 

Siang, pukul 11.45 atau 12.05 Wib, aku yang hampir tiga jam diayun dan dihempas gelombang, jauh meninggalkan kampungku yang berjarak sekitar 500 meter dari bibir pantai, sukses berlindung di sebatang pohon yang tak tumbang karena gelombang. Memanjat ke dahan yang nyaman untuk beristirahat, aku baringkan badan, hampir satu jam lamanya, sebelum para penyintas lainnya mengajakku mengarungi genangan air setinggi dada, menuju daratan.

 

Takut, sedih, marah, kesal, kecewa, bercampur jadi satu. Aku tinggal sendiri, sebelum keesokan harinya bertemu kembali dengan istriku. Air mata tak lagi mengalir, bahkan perut tak lagi merasa lapar, dan kerongkongan tak lagi merasa haus. Kesedihan menggunung, kesal membuncah. Marah pada kebodohan diri sendiri yang tak pernah mempelajari apa itu tsunami, kecewa pada keterlambatan mengantisipasi dampak guncangan 8,9 SR.

 

Tak ada yang bisa dijadikan kambing-hitam(orang yang disalahkan, tetapi belum tentu salah) ketika harta, keluarga, dan nyawa melayang. Berbulan berkabung menyalahkan diri sendiri dan meratapi kehilangan yang tak pernah kita persiapkan sebelumnya. Berbulan aku terjerembab dalam gelap, trauma, hingga marah yang tak berkesudahan. Emosiku labil, sebelum akhirnya aku tiba pada titik kesadaran, “Aku ini Siapa? Aku punya kuasa apa? Jika sang Pencipta berkehendak, siapa bisa menghentikan Nya?”
***

 

Obat Trauma

Tiga bulan (dua bulan penuh menetap, sebulan berobat jalan) aku di Medan, Sumatera Utara, untuk menjalani perawatan medis. Dan selama itulah ‘teror’ mental kualami. Trauma akan peristiwa itu tak pernah lepas dari benak. Terulang, setiap saat selalu terulang. Bukan karena kemauanku, tapi karena keadaan dan lingkungan sekitar yang memaksaku untuk terus mengulang peristiwa itu, sehingga tak pernah bisa menghilangkan trauma.

 

Hampir setahun, aku akan langsung jatuh lemas ketika bumi berguncang (gempa). Bahkan saat tidurpun, aku akan tersentak bangun begitu ranjang bergoyang. Lari sejauh-jauhnya meninggalkan rumah, menjadi opsi pertama, meski terkadang aku tak sempat mengenakan baju. Yang ada di pikiranku saat itu, lari sejauh-jauhnya menghindari garis pantai.

 

Di kota Medan, aku menjadi penutur yang baik tentang kisah tsunami Aceh. Tak ada waktu terbuang sepanjang 129.600 menit keberadaanku di kota kelahiranku itu. Siapa saja, yang bertemu denganku, akan selalu mengajukan pertanyaan yang sama, “Bagaimana kejadiannya? Di mana kamu saat itu? Kok anak-anak bisa hilang? Dst.. dst...”

 

Kuputuskan segera, “Kita harus kembali ke Aceh,” ujarku pada istriku yang masih harus berobat jalan guna menyembuhkan luka bekas operasinya. “Sembuh ini, kita pulang!” ujarku tegas.

 

Awalnya, keluargaku menolak keinginanku ini. Bahkan mereka bersikeras melarang kami untuk kembali ke Aceh, meski keluarga besar istriku tinggal di Aceh. Bahkan kantorku menyediakan ‘meja’ untukku, agar aku tidak kembali lagi ke Aceh. Tapi kecintaanku pada ‘kampung halaman kedua’ ku ini, serta untuk menghilangkan trauma karena selalu mengulang kisah itu, membuat mereka semua luluh.

 

“Kalau masih di Medan, sampai kapan pun aku tak akan bisa menghilangkan trauma ini. Karena setiap kali bertemu orang, pertanyaan yang sama, yang jawabannya juga selalu sama, mengulang kisah pilu itu akan selalu terlontar dari mulutku. Lalu kapan aku bisa menghilangkan trauma ini? Tempat yang paling baik untuk mengobati trauma, menurutku, ya kembali ke Aceh. Mengapa? Karena hanya di Aceh-lah, aku dan istriku tidak akan menjawab pertanyaan-pertanyaan yang sama ini. Sebab, semua yang ada di Aceh, tidak akan mempertanyakan hal itu, karena mereka semua mengalami hal yang sama seperti yang kami alami,” ujarku.

Maka jadilah, akhir Maret 2005, aku dan istriku kembali ke Banda Aceh untuk memulai hidup baru.
***

 

Berserah Diri

 

Kembali menjalani hidup di Banda Aceh, kami memulainya dengan berkunjung ke tapak bekas rumah kami yang tersapu tsunami. Di sini, tak hanya istriku, aku ikut menangis. Teringat kedua buah hati kami, teringat sepupu kami yang sampai kini tak pernah kami temukan jasadnya. Lalu ritual kami lanjutkan ke kuburan massal korban tsunami di Desa Siron, Inginjaya, Lambaro, Aceh Besar. Tapi tangis tak perlu berlanjut, sebab hidup harus terus dijalani.

 

Hari-hari kujalani dengan rutinitas sebagai jurnalis, sambil kuselingi dengan bergerilya dari kamp ke kamp pengungsian, mencari kedua anakku dan sepupuku yang belum ditemukan. Berbekal foto usang dan hitam putih kedua anakku, dengan motor vespa tua keluaran tahun 1978 yang selamat dari tsunami—karena saat kejadian tengah dipinjam tetangga—aku berkeliling Banda Aceh dan Aceh Besar. Termasuk menyusuri setiap kantor LSM/NGO yang beroperasi di Aceh pascatsunami.

 

Berbilang bulan aku terus mencari, sebelum akhirnya kusadari, kalau semua kehendak yang kuasa, Sang Pemberi Hidup. Kukembalikan semua kepadaNYA. Kuyakini, dibalik musibah ini, ada makna dan rencana besar Sang Maha Pencipta. Aku pasrah. Tuhan tak pernah tidur.

 

Keyakinan ini akhirnya membuat aku dan istriku tenang, Kami tak lagi merasa kehilangan, kami tak lagi harus bersedih, kami tak lagi harus meratapi hidup. Sebab, hidup harus berlanjut dan Allah SWT telah mengaturnya untuk kami.

 

Empat tahun kemudian, 19 April 2008, putri mungil, yang kemudian kami beri nama Tijan Syifa Afiqah lahir. Menjadi obat (Syifa) penawar/obat di kala kami sedih dan teringat kedua anak kami yang hilang, menjadi ratu (Tijan) dan rumah tangga kami.

 

Jangan pernah marah, Saudaraku! Tuhan punya rencana di balik semua kehendaknya, dan Dia tak pernah tidur!

 

Banda Aceh, 5 Agustus – 5 Oktober 2016
Arief Rahman - Samsidar